園長ブログ

コミュニケーション

2012/04/23

コミニュケーションが大切さがよく言われます。広辞苑によるとコミュニケーションとは「社会生活を営む人間の間に行われる知覚・感情・思考の伝達。言語・文字その他視覚・聴覚に訴える各種のものを媒介とする。」とあります。誰かの気持ちや考えを知ること、自分の想いや意見を伝えることです。

対面して話しをするというコミュニケーションに限っても、伝達は言語だけによるものではありません。そういうと、「7%-38%-55%のルール」と言って、何かを伝えるのに重要な役割を果たすのは、言語7%、声のトーンなど聴覚によるもの38%、相手の表情など視覚によるもの55%というアメリカの心理学者アルバート・メラビアンの説が取り上げられることが多いようです。しかし、この実験結果は特殊な条件下でのものであって、いつでもどんな状況下でもあてはまるものではないようです。

ただ、ことばというのは伝わらないことが多いものです。その理由の一つは人によってことばの意味の範囲が微妙に違うということです。私よりずっとたくさんごはんを食べる職員がいます。私にとっての「大盛り」とその職員にとっての「大盛り」はかなり量が違います。大きい、小さい、多い、少ないなど相対的な概念でなくても、人によって微妙に意味の範囲が違ったり、単語に対して持っているイメージが異なります。ですから、十分注意しないと誤解を招くことが多いのです。

また、話すときの口調や声のトーンなどによっても、全く違うメッセージが伝わってしまうこともあります。例えば、ものごとを断定的に言った場合、言った本人には全くそんな気がなくても「他の意見は受け付けない!」というメッセージが伝わってしまうことがあります。もちろん聞く人にもよるのですが・・・

言った人は全くそんな意図はないのに、勘違いして「他の意見は受け付けない」というメッセージを受け取ってしまった人は、嫌な気分になってしまうこともあります。そのまま相手の真意を確かめないでいると、言った人のことを「あの人は人の意見を聞かない人だ。」という思い込みが、聞いた人の心の中で膨らんでゆきます。そうすると、聞いた人は、言った人の気に入らないと思っていたところばかりが思い起こされ、「あのひとはイヤな人だ。」と心の中で勝手に思い込んでしまうことがあります。

誰かのことばに疑問を感じたり、好ましくないニュアンスで受け取ってしまった場合は、怒りなどの感情が生まれる前に、生まれたとしても冷静に、「今のことばはどういう意味?少しきつく聞こえたんだけど・・・」などとと問い返せると良いと思います。あくまでも感情を使わず冷静にです。たずねてみたら、相手は全くそんなつもりはなかったと言うことがわかって、誤解が解けるかもしれません。すれ違いや勘違いが小さいうちに修復しておいた方が、良いと思います。

チームのメンバーがお互いにそう言い合える関係でいると、みんなが楽しくハッピーでいられるのではないでしょうか。

保護者会

2012/04/22

昨夜は、雨はそれほどでもなかったのですが、かなり強い風が吹いていました。
春暁の「夜来風雨声 花落知多少」ではありませんが、桜の花もずいぶん散ってしまったのだろうなーと思っていました。ところが、朝見てみると、しっかりと枝に残っている花もたくさんありました。まだまだ花の役目が終わっていないのかもしれません。役目が終われば風が吹かなくても自然と落ちるものの、その役目が残っている間は少々の風には負けないで頑張っているのかもしれません。強風に耐えて自分のミッションを遂げようとしているようで、頼もしく思うと同時にいとおしく思えました。自然はよくできているものです。

昨日は、今年度初めての保護者会の集まりを行いました。当園は保護者会の組織はありません。組織を作る良さもあるのですが、組織のための組織になってしまってはつまらないので、今はみんながゆるめにつながっている感じで、できる人ができるときにできることを園のためにしてくださったり、園がお手伝いを募ったときには都合のつく人が集まってくださったり、子どもをまん中にみんなでつながり、みんなで楽しめるような形で協力し合っています。ただ、年に何度かは園に集まっていただいて話をしています。今年度第1回目の昨日は、昨年度から変わったことや、園が大切にしてゆきたいことを伝えました。

当園の目指す子ども像に「自分の想いを伝えることができる子」「相手を受けとめることができる子」というのがあります。しかし、子どもがそうなるためには、まず、大人が実践することだと思います。ですから、まずは職員が、職員同士でそれを実践してゆくことを重点的に取り組みたいと説明しました。保護者の皆様ともそういう心の距離が近い関係でいられることを願っているとも話しをさせていただきました。
想いばかりが先走って、わかりにくい話だったと思うのですが、皆さん真剣なまなざしをこちらにむけて聞いてくださっていました。

保護者の皆様からいただくまなざしに包まれて、もっともっと真摯に、真心を込めて保育にあたらなくては!と背筋がピンと伸びました。

花吹雪

2012/04/21

ようやく咲いた桜が早くも散り始めました。風にひらひらと舞い散る桜の花びらも美しいものです。まだまだ全部散ってしまったわけではありませんが、枝の先には早くも緑色の葉が顔をのぞかせていました。天気予報は日曜日にかけて風雨が強まるという予報だったので、桜はかなり散ってしまうのでしょう。いつまでも美しく咲いているはずはないのですが、少し残念です。

全てのものは変化してゆくので「そんなもの」と受けとめられれば良いのですが、いつまでも美しく咲いていて欲しいという想いが強くなってしまうと、散ってしまうものだという現実との違いに苦しむことになります。

桜の花くらいであれば、そんなに苦しむことはないのでしょうけれど、もっと大切にしているものであれば、失いたくないという気持ちが強いので、苦しみも多くなります。ものだけではありません。いつまでも若い姿でいたい、人によく思われたいという気持ちもそうです。自分の中で現実を受けとめることができると少しは楽になれるのかもしれませんね。

しかし、心は弱いもので、すぐに自分のものにしたがったり、自分の考えにこだわって変わりたくなかったり・・・苦しみのネタは尽きません。こうした苦しみから解き放たれて、すこしでも乱されない安らかな心でいられるようになりたいものです。

風に舞う桜の花びらを見ていたら、そんなことを考えてしまいました。

春の自然

2012/04/20

   咲き始めた八重桜

今日は二十四節季の「穀雨」だそうです。穀雨とは雨が降って全ての穀物を潤すという意味で、田畑の準備が整い穀物の生長を助けるやわらかく、あたたかい雨が降るのだそうです。今日は朝から雨でした。やわらかいというより、かなりしっかりと降っていると感じました。この雨で、せっかく咲いた桜が散ってしまうのではないかと心配しましたが、思ったほど散ってはいませんでした。
お寺の本殿前は八重桜も咲き始め、白や桜色、薄紅色などの花がたくさん咲いてとても華やかなのですが、それが雨ににじんで、やさしい色のカクテルになっていました。

咲くのが遅かった桜にばかり気を取られていたら、いろいろな植物が芽吹いていました。枝先に生まれたもみじの葉っぱがいつの間にか大きくなっていて、やわらかい黃緑色が広がってきています。きのう子どもたちとさんぽに行ったときには春の日差しをうけて、自ら輝いているように見えました。芽を出したばかりの葉っぱはとてもかわいらしくて、日に日に大きくなってゆくのです。

   少し大きくなったもみじの葉

「目に見えて」という表現がぴったりなほど、あっという間に大きくなってゆきます。このもみじの葉っぱの成長を見ていると、「葉っぱも生きているんだなー」とその生命力に元気をもらえるので、とっても好きなのですが、今年は心に余裕がないのか、もみじが芽吹いたことにも、ある程度大きくなっていることにも気付きませんでした。

葉っぱはそれほどでもないのですが、どんな動物でも赤ちゃんはかわいらしいものです。それは、赤ちゃんの戦略なのだそうです。体つきや、顔の作りが他から見てかわいく感じるようにできているのです。

   黄緑色に輝くもみじの葉

そうすることで、他の人が「かわいい」と思ってかわいがったり、面倒を見るのだそうです。誰かに面倒を見てもらわないと生きて行けない赤ちゃんにとっては、重要な戦略です。

もともと持っているその戦略が最近の人間の大人には通じなくなってきているのかもしれません。虐待のニュースに触れるたびに、どこか自然のバランスが崩れてしまったのかと感じざるを得ません。

一気に暖かくなったので、様々な生き物のいのちの輝きが増して来ているようです。余裕がなくなり、弱くなっている心に、元気をもらうようにしたいものです。いや、もらうのではなくて、自らコントロールするのでしょうね。

さんぽ

2012/04/19

      沈丁花

    さんぽに しゅぱーつ!

ようやく、陽春ということばがぴったりのとても暖かな日になり、いろいろな花が待ちかねたかのように咲きだしました。園の前にある桜も咲きそろいましたし、園庭にある山桜もたくさんの花をつけています。ただ園庭の山桜はとても背が高いので、意識して見上げないと花をつけていることがわからないのが残念です。

    さくらの木下で

子どもたちとのお参りを終えてから、桜の写真を撮ろうと思って外に出てみると、4歳児と5歳児が、散歩に行こうとしていました。「どこまで行くの?」と聞くと、「木の根道」という答えが返ってきました。お寺の参道で一番高いところまで登ります。

坂道を青空に向かってみんなで登ってゆく子どもたちの後ろ姿を見送っていたら、優しい風に乗って沈丁花の香りが運ばれてきました。青空は美しく、日差しはポカポカ。こんな日にデスクワークをするのがなんだかもったいない気がして、子どもたちと散歩に行くことにしました。先送りした仕事に後から苦しめられるかと思わないでもなかったのですが、そんなことより子どもたちと出かけよう!と思い切りました。こどもたちの散歩について行く旨のメモを残して園を出たら、子どもたちの姿は見えなくなっていました。みんな坂を歩くのは得意なようです。

途中いろいろなところで遊びながら本殿へ。本殿前の満開の桜の美しさに歓声を上げたかと思ったら、舞い降る花びらをピーピーと笛にして遊んでいました。

      木の根道

でも、ゆっくりしていると、目的地で遊ぶ時間がなくなるので、早々にさらに上を目指します。それまでとは違う薄暗く狭い山道を、今まで通りに楽しく登る子どもたち。山道を歩くと少し汗ばむくらいです。

木の根道についたら、鬼ごっこをする子、木登りする子それぞれに遊びました。静かな山に子どもたちの楽しそうな声が、いつまでも響いていました。

満開です

信じる

2012/04/18

子どもってどんな存在でしょう。小さくて、弱くて、何も知らない、守らなくてはならない存在。確かにそうです。大人より劣っていて、何もできなくて、教え導いてあげなければならない存在。そうでしょうか。

食べ物はこぼすし、すぐにころぶし、確かに大人よりできることは少ないかもしれません。しかし、大人にはできないこともいっぱいできます。想像力や発想力では大人は足下にも及びません。ファンタジーの世界に生きていて、その世界からとんでもなくおもしろいものを引っ張り出してきたりします。決して全てが大人より劣っているわけではありません。知らないことはいっぱいありますが、何もわからないわけではありません。役割というか特徴が違うのです。

第一、子どもは小さくてもひとりの人間です。少し長く生きてきたからって、大人の方が偉いわけではありません。人として対等な存在のはずです。そんなの当たり前だろうといわれるかもしれません。当たり前なのに、子どもはできないからという理由で、教え込もうとしたり、やらせようとしたりしていないでしょうか。

なにかひとつのことができないからといって「やりなさい」とやらせると、そのときはできても、次に同じような場面に遭遇したときには、またできなくなっています。遊具を使うのに順番に並ぶ必要があるとします。ただ「並びなさい」といって並ばせても、次に同じような場面になったときには、並びません。なぜなら、大人に並ばされているからです。子どもが「順番に並ばないとみんなが困るから並ぼう」と自ら考え納得するからこそ、次にそうすることができるのです。禁止も同じです「ダメ!」と禁止するだけでは、子どもが主体的に「これは危ないからやめよう」と考えないので、又同じことをやってしまいます。

そして、大人が思っているよりも子どもたちはずっとずっといろいろなことを考えて、自分でできるのです。大人は「子どもはできないから」と思い込んでしまいがちですが、子どもを丸ごと信じきることによってこそ、子どもは自分で羽ばたくことができるのです。大人の側から考えて、大人がやらせるのではなく、まずは、子どもの側からスタートしませんか。

本殿前のさくらが満開に近づきました

保育って・・・

2012/04/17

子どもが自ら主体的に活動することが大切だと書きました。そういうと「なんでもかんでも子どもの好き放題にやらせておけば良いのか?」と言う声が聞こえてきそうですが、決してそうではありません。必要なことはしっかりと伝えることが大切です。そして、どんな伝え方をするかも大切です。時には厳しい言い方で伝えないといけないときもありますが、子どもがしっかりと納得できるように伝える必要があります。

子どもたちにどう育って欲しいのか・・・そこが大切なのです。それは、子どもたちが自分のことをわかること、他の誰かを認められること。コミュニケーションをとれること。お互いを認め合いながら、力を合わせて問題を解決してゆくことだと思います。

そうなるためには何が必要なのでしょうか。最も大切なのは、周りにいる大人の姿や態度です。子どもはそれを見て学ぶのです。子どもに「静かにしなさい」と言っていおいて、大人が大声で話していてはどうしようもありません。子どもたちがお互いに認め合って力を合わせて欲しいと願うなら、まずは大人自身が、誰かの批判をするのではなく、真剣に相手の話を聞くなどして自から相手を認め、心を開いて話し合い、協力し合うことが必要です。
「学ぶ」は「まねぶ」ことなのですから、子どもたちは保育園では、私たち保育者の真似をしてゆくのです。事実、子どもの口調が担任の保育士に似ることがあるのです。

保育は、子どもに何かを教えたり、何かをさせるのではなく、大人がどう生きるかなのではないでしょうか。子どもはその姿から「学ぶ」のだと思います。

なんて偉そうなことを言って、「あなたは子どもに真似されていい生き方をしているのですか?」と聞かれると、言葉に詰まってしまいます。自信がないというより、穴があったら入りたいくらいですが、それをしっかりと心にもって自律してゆく覚悟が必要なのだと思います。

保育する

2012/04/16

保育するとはどういうことでしょうか。子どもを育てることでしょうか。それなら、子どもは育てられる存在なのでしょうか。育つ存在なのでしょうか。もちろん育ち育てられる相互関係なのだとは思います。では、主役は誰でしょうか。それは自分に必要なことを学び自ら育ってゆく子どものはずです。

学校は子どもたちの全人格的な発達成長を促す場ですが、どちらかというと多くの知識を習得すること、先生が生徒に知識を伝えることが大きな目標となっているのではないのでしょうか。学校の教室は、黒板の前に立った先生の声が一番後ろに座る子にも届き、ある程度まとまった数のこどもたちに知識を伝えるのにちょうど良い広さと形になっていると聞いたことがあります。先生が教えなければならない内容をどう子どもたちに、どうわからせるかを計画して授業をします。そう、授業なのです。先生が生徒に授けるのです。当然、子どもたちは先生から知識を受け取ることが主になります。

では、保育園では何が大切なのでしょうか。それは遊びを中心とした生活だと思います。子どもが自ら生活の主役となること。自ら育ってゆくことです。そのために大人がするべきこと。それは、子どもたちができるだけ自ら考え、自らの意思で行動できるように環境を整えてあげることです。主役である子どもが、思う存分自分を発揮して自ら育つことをそっと支えてあげれば良いのです。

学校の真似をして知識を子どもに伝えることが最も重要だと思ったり、こどもにはいろいろなことを教え込まなくてはいけない。と言う思いが強すぎたりして、何かを「させる」こと、禁止することが多くなることがあります。しかもそれは子どもが決めるのではなく、大人の都合だけで決めてしまうのです。これでは大人主体です。

ついついやってしまうのが、「びびらしてなんぼ!」です。「洋服を片付けなかったら先生がもらっちゃうよ」そういうと、子どもは大切な洋服を取られては大変だと「びびって」片付けます。でもそれは、「片付けた方が大切な洋服がなくなることもないし、他の人の邪魔にもならないから片付けよう」と子どもが自ら考え、自分の意思で行動しているのではないのです。ですから、何度でも洋服を片付けないということを繰り返します。子どもが自ら洋服を片付けるようになって欲しいならそうなるような接し方をすれば良いだけではないでしょうか。

ついつい「これしなさい!」「それしちゃだめ!」と命令して子どもを動かそうとします。大人が命令して、動かすことが、保育だと勘違いしてしまいがちですが、そうすることで、子どものどんな部分が育つのでしょうか・・・

雲珠桜

2012/04/15

暖かな日曜日になりました。桜は咲いたかなと、お寺に行ってみると、ずいぶん花が増えています。朝より夕方にはもっと増えました。お寺では花供養の中日法要が行われました。桜もちょうど咲き始め、淡い色に包まれた境内にはほのかに甘い香りが漂っているかのようです。箏曲や尺八の奉納、合気道の演武奉納などが行われ、陽春ということばがふさわしい華やいだ空気に包まれていました。

今日から10日ほどが、鞍馬の桜が美しいかもしれません。ソメイヨシノに限って言えばです。他にも様々な八重桜やしだれ桜、山桜など染井吉野の他にも多くの種対の桜があります。例年は染井吉野が咲く前に山桜が可憐な白い花を咲かせているのですが、今年はまだです。染井吉野に気を取られていたら、八重桜もつぼみが膨らみ、咲きそうになっている花がありました。これからしばらくは美しい桜が楽しめそうです。

「鞍馬」「桜」といえば、

花咲かば、告げんと言いし山里の、使いは来たり馬に鞍、鞍馬の山の雲珠桜、手折り栞を知るべにて、奥も迷はじ咲き続く・・・

謡曲『鞍馬天狗』の一部です。ここに出てくる雲珠桜(うずざくら)とはどんな桜なのでしょうか。これにはいろいろな説があります。

唐鞍といって正式な行列などで馬を飾るための馬具があります。その馬具の鞦(しりがい)につける、宝珠の形をした飾り金具を雲珠(うず)といいます。

①花の形が、この雲珠に似ている桜という説
②鞍馬山の桜を総称して雲珠桜という説
③様々な桜が緑の木々の中に咲く様子が、馬具の飾り金具である雲珠に似ているからという説
④馬の鞍と鞍馬が通じることから、「鞍馬山の雲珠桜」と鞍馬山という固有名詞を冠してこそその意味がある。雲珠桜とは雲珠のように咲く鞍馬山の桜という意味で特定の品種ではないとする説もある。
⑤冠にさす飾りを髻華(うず)といい、古くは髪に草木の枝をさして飾りとしたことで、鞍馬山の桜を手折り髪に挿したところから、雲珠桜(うずざくら)と呼ぶという説。

①は雲珠桜という特定の品種があるという説、②③④は鞍馬山に咲く桜を総称して雲珠桜という説、⑤は優雅です。

雲珠桜という固有品種があったとも言われているようですが、そうだったとしても、総称だとしても平安時代から鞍馬の桜は有名だったようです。

「これやこの音に聞きつる雲珠桜 鞍馬の山に咲けるなるべし」『定頼集』

唐鞍(『日本国語大辞典』小学館)

 雲珠(『日本語大辞典』小学館)

さくら 咲いたかな…

2012/04/14

日本の国花は法律で決められているわけではないそうですが、一般的に桜は菊と並んで日本の国花といえるでしょう。古来より、桜は歌に詠まれるなどしてきましたが、平安時代以降は、花といえば桜のことをさすほど、春の花の代名詞となっています。

桜の種類は、基本的にはヤマザクラ、エドヒガン、オオシマザクラ、ヤエザクラなどの種類があり、これらの交雑などにより、自生種だけでも様々な種類があるうえ、桜人気は昔からのことだったようで、平安時代から様々な園芸種の育成が行われた結果、多くの種類の桜があるようです。

昨日も書いたように、桜というと現在は染井吉野が一斉に咲いている姿が思い浮かべますが、江戸時代に染井吉野が生み出されるまでは、桜の風景も今とはずいぶん異なったものだったのではないかと思います。

ようやく咲き始めたお寺の本殿前にある桜が今日はずいぶん咲いているだろうと、期待して見に行ったのですが、開いた花がほんの少し増えただけでした。園の前の参道にも桜が植えられていますし、園庭にも大きなヤマザクラの木があるのですが、こちらはまだ花を咲かせるまでにはなっていません。

昨日降り続いた冷たい雨が昼頃には上がり、雲が多めながらも日差しはあったのですが、空気は冷たかったので、開花は進まなかったのでしょう。明日はお天気も良いそうなので、どのくらい咲いてくれるか楽しみです。

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