園長ブログ

端午の節句

2012/05/03

5月5日の端午の節句が近づいて、園には五月人形が飾られています。現在のように鎧甲を飾るのは武家が武運長久を願って、飾るようになったようですが、もともとは菖蒲やヨモギを家や門に飾って邪気を払ったといわれています。こいのぼりは、4月中旬から園庭の入口で元気に泳いで、4月に入園した新入園児さんのお気に入りです。子どもたちが心も体も健やかに育つことは昔から全ての人の願いです。いつでもなによりも優先されてほしいものです。

    こいのぼりくぐり

園では5月2日に端午の節句のお祝いをしまして、みんなで楽しく遊びました。保育士の発案で、いくつかのお楽しみコーナーができていました。今では使っていないこいのぼりをトンネルのようにしてくぐってあそぶ、こいのぼりコーナー、新聞紙を折ってかぶとを作るコーナー、そして、新聞紙でまわしを作ってお相撲を楽しむコーナーです。子どもたちはそれぞれにとても楽しんでいました。

かぶと作りコーナーではつくりかたがよくわからない子が、うまく作れる子に「ここはどうするの?」

    ここどうするの?

とたずね、つくりかたを知っている子が、「そこはこうだよと教えると、教えてもらった子は、ありがとう!と言って、次の行程を自分で作っていましたし、教えた方も自分のを作るのにもどっていました。子どもなりに自分でどこがわからないかがわかっていて、そのわからないところだけを友達に聞く。それがわかったらまた自分で作っていたのです。わからない子は自分のわからないとろだけをたずねる。教える方も相手が求めていることだけを伝える。自立した姿だと思います。

     はっけよーい!

それに対して、わからなくなると、「これやって!」と全部やってもらおうとする。逆に「ここ教えて!」といわれると、お節介を焼いて全部教えてしまう。これでは両方とも依存です。こうならないよう大人も気をつけたいものです。

お相撲コーナーはとても楽しそうでした。新聞紙で作ったまわしをしめて、マットの土俵に上がったら、みんな真剣勝負です。はっけよーいのこったのこった!出番を待つ子も土俵の周りで応援していました。

     みあって!みあって!

そんな子どもたちの姿を見ていると、「みんなが、元気に大きくなれますように」と祈らずにはいられませんでした。そのために私たち大人が何をすべきか、すべきでないのか、よくよく考える必要があります。

歯科健診

2012/05/02

子どもたちが心も体も健やかに大きくなるために健康診断は必要です。
歯科の健康診断を行いました。連休の合間にもかかわらず、9割の子が出席して健康診断を受けてくれました。一人ずつ順番に歯の状態や噛み合わせを診ていただきます。ほとんどの子が泣くこともなく、大きく口を開けてくれました。1歳児や2歳児の中には、かなり緊張している子もいましたし、もう少しで泣き出しそうな子もいましたが、お医者様が優しく接してくださることもあって、何とか持ちこたえていました。

最近の子どもたちは虫歯が少なくなったと思います。保護者が丁寧に歯磨きをしていらっしゃるのだと思います。まだ、乳歯だから少しくらい虫歯になっても大丈夫。なんて思っていらっしゃる方はいらっしゃらないとは思いますが、乳歯はいろいろな役割を果たしています。乳歯がちゃんとあって、しっかり噛むことで顎の骨の成長を促し、永久歯が生えるための準備をし、また、永久歯が正しい位置や方向で生えることができるガイドの役割もしています。もちろん噛むことの練習のためにも必要ですし、ことばを覚え始める乳児が正しい発音をすることはとても大切です。面倒がらずにしっかりケアしてあげたいものです。

永久歯がしっかりと生えそろい、大人になったら、歯なんて動かないと思っていらっしゃる方は多いと思いますが、決してそんなことはありません。たとえば、なにかの理由で歯が一本抜けると両隣の歯が寄ってきたり、反対の顎の噛み合っていた歯が伸びてきたりするそうです。私自身、現在治療中で、普段マウスピースをつけているのですが、しばらくマウスピースをつけないでいると、次につけたときに少しつけにくいことがあり、歯も少しずつ動いているのだと実感しているところです。

健康診断もスムーズに終わって、「健康な歯の子が多くてよかった」などとお医者様と話をしていたのですが、ひょんなことから人材育成の話になりました。最近の学生さんはよく勉強されるそうで、歯科大学でもそうらしいです。その話を伺って、「しっかり勉強してくださるのは良いですね。」と言っていたら、知識をたくさん持っていることは良いことだが、知識や理論ばかりを偏重してしまうと、そこから抜け出せなくなって大変だと仰っていました。臨床の現場は患者さん一人ひとり違いますし、全く同じ治療をしたとしても、患者さんによっては全く逆の結果が出ることもあるそうです。ですから、患者さんの口の中だけではなく、全てを診て今どんな治療が必要かを判断しなくてはならないのに、知識や理論だけで考えてしまうと、最良の治療ができない。そうです。もちろん学ぶことは大切だし、知識もたくさんあった方が良いのだが、「知識や理論は学ぶだけ学んだら、一旦捨てた方が良い」と仰っていたことが、とても示唆的で印象に残りました。健康診断だけでなく、貴重なことを教えていただいたお医者様に感謝します。

百花繚乱

2012/05/01

暑いと言ってもよい季候になりました。4月のはじめはまだまだ寒く、雪が降ったりしていたのですが、下旬になって急に気温が上がりました。ちょうど良いくらいのさわやかな日もありますが、気温の変化が急激な気がします。

4月も中旬になってソメイヨシノが咲き始めた時にはまだ白梅が咲いていました。それから山桜も咲きだして急に暖かくなり、しだれ桜、八重桜とどんどん桜が咲き始めました。暖かくなるのが早かったので、ソメイヨシノの見頃はあっという間に過ぎてしまいましたが、八重桜がぽつりぽつりと咲きだし、今では後発組みが満開になっていて、お寺の本殿前は、華やかです。

八重桜にはたくさんの種類がありますが、ちょっと変わったのでは、黄緑色の花をつける桜があります。御衣黃(ギョイコウ)という種類のようです。咲き始めは薄緑色をしていて、時間が経つにつれて花の中心部分からピンク色に変わってくるのです。鬱金(ウコン)という種類は同様に黄色に近い薄緑色の花を咲かせますが、色が変わってくるのは御衣黃のようです。
また、貴船雲珠(キブネウズ)という種類もあって、こちらの花はもう散ってしまいましたが、全てが同じ花をつけるわけではなく、花のうちの何輪かに一輪が八重咲きというのか、一枚多く花びらがついているのです。

百花繚乱というほどではありませんが、その他にもお寺の参道にはヤマブキ、シャガ、ツバキ、などたくさんの花が咲いています。加えてあざやかな新緑が目を楽しませてくれています。本殿付近にはハナズオウもかわいらしい紫色の小さな花をたくさんつけています。白い藤は早くも花を咲かせようとしていますし、シャクナゲも八分咲きです。私などは気付かないだけで、美しい花がたくさん咲いているのだと思います。それぞれに自分の役目を精一杯果たし、いのちを輝かせているのでしょう。

   山門付近の桜

     シャガ

     ツバキ

     キブネウズ

     シロタエ

      散り敷く

     ハナズオウ

   咲き始めた藤の花

   御衣黃 咲き始め

   御衣黃 少しずつ色が変わります

  御衣黃 ずいぶん色が変わりました

     ヤマブキ

じぶん

2012/04/30

自分というのは、どうもよくわからない・・・

身体はとても複雑で、各部分がそれぞれの役割を果たしながら全体が調和しています。完璧なチームワークです。内なる自然とも、小さな宇宙ともいえるでしょう。そして、こころはどこにあってどうなっているのかよくわかりませんが、最近の研究では脳の働きが心の働きと深い関係がありそうなことがわかってきているようです。しかし本当に脳だけなのでしょうか?

「ものごとは、心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。」お釈迦さまのことばという形で記された最も古い原始仏典の一つ『法句経』(ダンマパダ』の最初に出てくることばです。全てのことは心によって作り出されているのです。心が認識するからこそ、それが存在するのです。ですから心をしっかりと制御できれば、楽にいられるのです。とはわかりながらも、ついつい心が暴走してしまうのです。心というのはとらえどころがないのです。
身体もよくわかるわけではない、こころもよくわからない。そんな自分って何なのでしょう。

そこまで深く考えないにしても、あなたが「今、あなたが一番やりたいことは何?(あなたが没頭できることは何)一番苦手なことは何?」とたずねられたことがありますが、すぐには答えられませんでした。普段あまり考えてもみなかったことだったので、しばらく考えてしまいました。毎日の仕事も毎日普通に行っているだけで、これは好き、これは嫌いとは考えていないませんでした。

好きなことは正直に好き、苦手なことは正直に苦手と言えないというか、それを言うことは単なるわがままで、自分のやりたいことしかしない。嫌なことは避けて通るずるい人というイメージがついているのかもしれません。
それは、号令で一斉に動く均質な労働力を整えるための教育を受け、どこか人と違うことをしてはいけないという価値観が染みついているのか、自分はこれが好き、あれは苦手と自分の想いを伝えることをしてこなかった。自分の本心、真心のことばに耳を傾け、声にすることを忘れてしまっているのかもしれません。

自分

2012/04/29

自分って何でしょう?自分のことってわかっているようで、わからないのではないでしょうか。

自分は何からできているのでしょうか。
まずは「からだ」でしょうか。足がかゆい、手が痛い、お腹がすいた等の感覚を感じます。頭の先から足の先まで、様々な器官がそれぞれの役割を果たして私たちの命を繋いでくれています。人の身体はとても微妙なバランスの上に成り立っているそうです。例えば肝臓はとても精密強大な化学工場だといわれます。一つの臓器をとってみても、すごい働きをしているのです。また他の臓器と連携して、とても複雑かつ微妙なバランスの上に成り立っているのです。健康な人は身体の各部分がバランスをうまく保って連携していることが毎日続いているので、それが当たり前になっていますが、本当は有ることが難い、ありがたいことなんですね。しかし、私たちは普段あまり意識することも有りませんし、科学の発達でいろいろなことがわかっては来ていますが、未知の部分も多いのです。
もしかしたら自分のものだと思っている身体は、自分のものではなく借り物かもしれません。

そして、「こころ」です。心の働きはますます複雑です。哲学や心理学、様々な宗教が古くから心の問題を扱っています。
近年は脳科学(神経科学)が発達し、心の働きと脳の働きを結びつけて解釈することが多くなりました。しかし、心の全貌が理解できるようになったわけではありません。

自分という存在は、心と体から成り立っているとするのが一般的だと思うのですが、私は勝手にもう一つの概念として「まこごろ(真心)」とでも呼べるものがあるような気がします。本当の自分というのか、全てと共通する真理というのでしょうか。よくわかりませんが・・・もしかしたら、心というカテゴリーの中に含まれるのかもしれません。

こうやって見てくると、実は、自分のことはよくわからないのだと思います。

初夏の一日

2012/04/28

朝からとても良いお天気になりました。真っ青な空に若いもみじの薄緑色が映えて、何ともいえない清々しさです。私のとても好きな景色の一つです。朝は気温が低く肌寒いくらいでしたが、強い日差しと共に気温がぐんぐん上がり、10時頃には鞍馬でも汗ばむほどでした。

     たのしいねー!

朝から園庭で遊ぶ子どもたち。仕事はたくさんたまっているのですが、あまりにも天気が良く子どもたちが何をして遊んでいるのかも気になったので園庭に出てみました。砂場で炊き込みごはんを作っている子、少し低くなった築山の上から三輪車に乗って下ることを楽しんでいる子。ぼーっと見ていたら、女の子がひとり、登り棒に登りたいから手伝ってと呼びに来ました。足で身体を支えることがうまくいかないようだったので、少し手伝ってあげるとすぐにできるようになりました。足洗い場の近くでは泥遊びがはじまっています。鉄棒ができるようになったから見て!と得意げに見せてくれる子もいます。日差しはとても強いのですが、さわやかな風が吹き抜けてゆきます。少し気分がめいり気味なときでも、この青空の下で子どもたちの遊ぶ姿を見ていたら、思わず笑顔がこぼれます。

 ウォータースライダーに早変わり

ほっとして、部屋で事務仕事をしていたのですが、なんだか楽しそうな園庭が気になり事務も手につかないので、もう一度園庭に出てみると、30分のうちに一気に夏が来たのかと思う光景になっていました。ほとんどの子どもたちがずぶ濡れになって水遊びに興じているのです。水をためたたらいに入ってすっかりお風呂気分の子、園庭の滑り台は早くもウォータースライダーに早変わり、パンツ一枚になって水しぶきを上げて遊んでいます。水は結構冷たいはずですが、子どもたちはお構いなし、とっても楽しそうでした。

  ピクニック気分でお昼ごはん

思いっきり遊んでお腹がすいたけれど、この楽しさを余韻まで味わおうということからか、お昼ごはんも園庭で食べることにしたようでした。「いただきます」の声が聞こえたので、楽しそうに食べているかなと思って見に行ってみました。

2歳児の女の子たちが集まって食べているテーブルのそばを通りかかったときに、女の子が隣の子のシチューをスプーンですくって自分の口に運んでいました。「え?何してるの」と思いましたが、すぐには声をかけずにしばらく見ていると、また隣の子の器からシチューをすくっています。今度こそ声をかけようかと思いましたが、次の瞬間、隣の子の口へスプーンを運んでいました。どうやら、少し食べにくかった隣の子を手伝ってあげていたようです。では、さっきの一口目を自分の口に運んだのは何だろうと、次の疑問が湧いてきました。もしかして、熱くないか確かめていたのかもしれません。そういえば自分の口に運んだ一口目はスプーンの先にほんの少しシチューがのっていただけでした。その子に聞いたたわけではないのですが、きっとそうだと思います。思わずほほえんでしまいました。

反省

2012/04/27

仲間がいます。志を一にし、同じ道を歩んでいる同士ともいえる人がいます。久しぶりに訪ねて来てくれたので、ゆっくりと時間をかけて話をしました。2日にわたって12時間くらいは話したと思います。

いろいろなことを話しているうちに、困っていることの話になり、いろいろなことが私が目指している形になかなかなってこないことに悩んでいる。という話しをしたら、しばらく私の話を聞いてから、「先生、子どもは主体的に活動することが大切で、大人が何かをさせたりしない方がいいんですね。なのに、先生はにそれをやらせようとしていませんか?」と訪ねられました。

頭の中が真っ白になりました。後頭部をガツンとやられた感じです。あれほど、やらないようにと言っていたことを自分がやろうとしていた。やってしまっていたのです。「きっと大丈夫!」と信じるはずが全くできていなかったというより、正反対の方に進んでいたのです。猛省です。恥ずかしいくらいです。

最近忙しすぎたのか、心の余裕がなくなり、いっぱいいっぱいになっていた自分。そうなっていることをわかってはいたのですが、なかなかそこから気持ちを切り替えることができない自分がいました。心のコントロールが必要だとはわかっていても、心が流されるのを止められなくなっていたのでしょうね。

私の場合そうなると、ついつい焦りが出てしまいます。きっと周りの人たちを苦しめていたにちがいありません。

迷惑をかけた方には、申し訳ないことをしてしまいました。ごめんなさい。
そして、ここでアドバイスを頂かなかったら、もっと暴走して大変なことになっていたかもしれません、引き戻してくださってありがとうございました。

こ・と・ば

2012/04/26

いつも何気なく使っていることばですが、私たちはことばを使って考えたり、様々なことを理解しています。もちろんことばを超えた直感というのも大切なことです。直感なんて当てにならない、非科学的だと言う理由だけで切り捨てない方が良いと思います。直感は、案外自分自身の素直な心でものをとらえているときの感覚だと思うので、一番正しかったりすることがあります。

ところで、ことばで理解するということは、世界を「ことば」というナイフで切り取ってきて目に見えるようにするのだという感覚が私にはあります。混沌としているところからすくい上げて、これが○○ですと名前をつけるという感じです。切り分けるから理解できるのだと思います。と同時に切り分けるから世界というのか宇宙というのか、その全体をことばで表すことはできないのだと思います。言語道断ということばがあります。一般的には「とんでもないこと」「もってのほか」という意味で使われることが多いのですが、「真理はことばでは説明できないものだ」という意味があります。ことばでは真理の一面しか表せないということです。切り取って取り出すので、部分になってしまわざるをえないのです。

そして、切り取り方がその人によって少しずつ違うので、ことばで説明するのは難しいのかもしれません。しかし、難しいからと言ってことばを使わなければ、もっと伝わらなくなります。せめて真心を込めて丁寧に話すことが必要です。また、百聞は一見にしかずではありませんが、見せることも大切だと思います。百のことばで説明するより、自分がやってみせることで、容易に伝わることもあります。特に子どもはやってみせるが一番学びやすいと思います。

ソメイヨシノはすっかり散りました

八重桜は満開です

ことば

2012/04/25

ことばって不思議だと思います。普段何気なく使っていますが、ことばはどこから生まれてくるのでしょう。脳の中の言語を司る部分だということなのでしょうけれど、どういう仕組みで、どうなって生まれてくるのか不思議です。私が知らないだけで、研究は進んでいるのだとは思います。

あたりまえのことなのでしょうが、ものごとを理解したり、思考を巡らせるときは、ことばを使います。ですから、理解や思考のツールとしてのことばに、どんなことばを使うかによって、理解や思考が異なってくると思います。例えば、英語をある程度マスターしてくると、英語で考えるようになります。「英語で夢を見るようになったら、英語をマスターしたといえる」ということを聞いたことがありますが、それも似たことなのかもしれません。そうやって英語ということばを使って発想や思考をすると、思考が英語的になるのでしょうか。使うツールが違えば、理解の仕方、思考方法、表し方が違ってくるかもしれませんし、根本的なところは、生まれ育った文化によるのかもしれません。その両方が作用し合うのでしょうか。

英語と日本語というように明らかに言語が違う場合は、違いがわかりやすいのですが、昨日のブログにも書いたように、同じ日本語を使っていても、一つのことばに対する意味の範囲が人によって微妙に異なるので、ことばによる相互理解をより深めようと思えば、自分の意味するところを相手にわかりやすく、丁寧に伝える必要があります。ついつい自分の想いをわかって欲しいという気持ちが強くて、説得しようとしたり、わからせようとすると、かえって理解してもらえないことが起こります。真心を持って伝える事が大切なのだと思います。

コミュニケーション 2

2012/04/24

コミュニケーションは、伝えること。伝えるために音声や表情、身振り手振り、そして、文字や話しことばなどを使います。対面して話し合っている場合、伝える人の表情や声色、身振り手振りから様々なことが伝わってきます。自分も無意識のうちしてしまっている表情や仕草が相手にいろいろな形で伝わります。意図しない受け止め方をされているときもあるでしょう。様々な伝達手段の中でもやはり、ことばは、多くのことを伝えているのに向いているのではないかと思います。

その一方で、誤解も生まれます。その原因の一つは昨日のブログで書いたように、人によって一つのことばに対して持っている「意味」の範囲がやイメージが微妙に異なることがあります。
例えば、「ゆっくり」ということを「のろい」と言ってしまう人がいたとしましょう、その人の中では「ゆっくり」=「のろい」なのですが、聞いた人の中で、「のろい」ということばがあまり良いイメージでなければ、聞いた人は批判されているように受け取ってしまうこともあります。そこですぐに「のろいといわれると批判されたみたいで、嫌な気分になってしまうからほかのことばを使ってほしい」と感情を乗せることなく伝えることができると良いのかもしれません。

意味の範囲の違いの他にも、伝える人の話し方、声の高さや口調などにより、伝わり方が全く異なることがあります。例えば、ものごとをはっきりと言う人がいるとします。とてもわかりやすくて良いのですが、誰かが意見を述べたときに、その意見に対して、違う意見をはっきり言う。もちろんそのこと自体は良いのですが、口調や言い方、信頼関係にもより、最初に意見を言った人が否定されていると感じてしまうかもしれません。もしそう感じたら、「今の言い方は少しきつく感じたなー!」「言いたいことはわかるんだけど、もう少し違う言い方をしてくれるとうれしい。」などと穏やかに本音を伝えられると良いと思います。そうすれば、今まで気付くことがなかった、話し方の特徴を自分から気付くことができるかもしれません。

そうすれば、何の気なしに本音でコミュニケーションをとることができるのではないでしょうか。

スクロール