園長ブログ

経塚巡拝

2012/05/13

経塚巡拝というお寺の行事がありました。経塚とは、写経を埋納した場所です。鞍馬山や周りの山々の尾根をはじめとした山の中に17箇所の経塚が有り、一カ所ずつお参りして巡ります。

そもそもなぜ経典を埋納したのでしょうか。書写した経典を後世に伝えるために経典を経筒に入れるなどして、埋めることです。平安時代に末法思想が流行し末法の世まで経典を残したいという理由と、お釈迦様の入滅後56億7千万年後に弥勒菩薩が弥勒仏となってこの世に出現して説法してくださるときに埋納した経巻が出現すると信じられていたこと等の理由から埋経が行われるようになりました。
鞍馬山を取り巻くように築かれた経塚には、お寺を守る役割があったのではないかとする説もあるそうです。

朝9時に山門を出発し全行程、平面距離にして約12キロ、上り下りを加えると。18キロ近くを丸1日かけて歩きます。お寺の参道であったり、自動車の通る鞍馬街道だったり、道なき道をよじ登るようなところもあり、ハイキングコースになっている歩きやすいところもあり、一歩間違えば、かなり危険なことになりそうなところもあり、様々な道を歩きます。今年は鞍馬の方々のご尽力で、新しい道が開拓され、ずいぶんと時間的体力的に楽になりました。

朝から快晴のとても良いお天気で、朝は寒いくらいの気温でした。日差しと共に少しずつ気温が上がって、頑張って歩くと汗ばみますが、少し立ち止まって休憩していると、とてもさわやかな、ひんやりとした空気の流れが感じられました。山の中を歩いていると、木漏れ日が緑色に染まっている気がして、ふと上を見上げると、真っ青な空に日の光を透かした若葉の緑が輝き、美しいことこの上ありませんでした。

帰ってきて、少し足は痛みますが、心地よい疲れを味わうことができる、とてもステキな一日になりました。

赤ちゃんパワー

2012/05/12

5月10日夕方、テレビのニュース番組で、赤ちゃん先生というタイトルのニュースが流れていました。不登校になってしまった高校生が通っている場所に、赤ちゃんが訪れるというものでした。高校生たちは、ぎこちない仕方で赤ちゃんをだっこしたり、あやしたりしていました。ふれあいが終わってから感想を聞かれた高校生は「めっちゃかわいい!」「また来て欲しい!」と満面の笑顔で応えていました。赤ちゃんとふれあうことを通して、感じること、学ぶことが多いのではないかということから行われた試みだったようです。赤ちゃんが高齢者の施設を訪れるケースも紹介されていましたが、赤ちゃんに接したお年寄りは一様に笑顔になっておられたようです。

赤ちゃんですから、もちろんお母さんがいらっしゃるわけですし、お母さんは大変ではないのだろうかと思っていたところ、お母さんの視点から見たこのとりくみも紹介されていました。私はさぞかしボランティア精神旺盛なお母さんで、そういう意識で活動していらっしゃるのだと思い込んでいました。ところが、お母さんも「こういう機会に外出することで、気分転換になってうれしい。それまでは子どもが泣いたらどうしようと思って電車に乗るのが怖かった。」「外出できなかった。」とおっしゃっていたのに少し驚きました。子どもを連れての外出がそれほど負担に思う人もいるのだということです。確かに片手に子どもをだっこして荷物をいっぱい持って大変そうなお母さんを町で見かけることはよくあります。周りの人も助けてはくれるとは思うのですが、それは負担なのでしょうか。子育て中のお母さんにも子どもにも負担が少ない社会であると良いなと思います。
また、お母さんは「赤ちゃんとふれあうことで、お年寄りが心を開いたり、高校生が笑顔を見せてくれるのが、うれしい。」ともおっしゃっていました。まさに赤ちゃんパワーです。
こういったとりくみが、赤ちゃんを育てるお母さんにも孤独感から解放される機会となっているのですね。

赤ちゃんがかわいく見えるのは、赤ちゃんの戦略だそうです。大人が世話をしたくなるように、かわいくできているのです。赤ちゃんには大人にはない能力がたくさんあるのです。もしかしたら、人の心を開く力も持っているのかもしれませんね。

おさんぽ

2012/05/11

4歳児と5歳児がさんぽに行くというので、またまたついて行きました。行き先は前回と同じ鞍馬山の木の根道や大杉権現方面です。もちろんケーブルを使わずに歩いて行きます。子どもたちが出発してしばらくしてから園を出たら、みんなの姿は見えず、声さえも聞こえません。慌てて追いかけますが、なかなか追いつきません。ようやく追いついたのは本殿までの約半分を登ったところでした。それでも葉っぱを拾ってみたり、虫を見つけてみたりしながら歩いているのです。本殿前まで登ると、八重桜のピンク色に染まっていた前回から一変、緑が支配する景色になっていました。子どもたちも気がついていて、「緑になってる」と言っていました。

     だいじょうぶ?

本殿前から奥の院方面へ向かう途中、先に行った友達に追いつこうと走っていた4歳児の女の子が、石畳に躓いて結構派手に転び、痛かったのと驚いたので泣きだしました。私はとっさに駆け寄ろうとしましたが、保育士はどうしたのだろうと周りを見回すと、少し離れたところからその様子をじっと見ていました。しかし、安易に手を出したりはしません。しばらく見ていると、転んだ子は泣きじゃくりながらも自分の力で起き上がりはしましたが、涙は止まりません。そうすると5歳児の女の子がスッと近くに行って、転んだ子のズボンの裾を上げて、膝頭を見てあげていました。

     山道を登ります

特にけがをしていたわけでもなかったようで、5歳児の女の子は、「大丈夫!」と言ってなぐさめてあげると、転んだ子は納得して泣き止み、山上へ向けて歩き出していました。

けががひどかった時はもちろん保育士が、手当をしますが、まずは子どもに任せていたのでした。この任せるというが結構難しくて、ついつい先回りして手出し口出しをしてしまいがちなのです。任せるために必要なのが、子どもを丸ごと信じるということです。信じて子どもどうしで解決できるよう見守れば、子どもは自ら動き出せるのです。

  切り株でバーベキューごっこ

木の根道に到着した子どもたちは、木の根道付近で遊ぶか、大杉権現前で遊ぶかを選び、山の中でしばらく遊びました。この日は気温も低く、風が強かったので、子どもたちが遊ぶのをじっと見ているとかなり寒く感じましたが、子どもの遊んでいる姿を見ていると、何をどう考えて動いているのだろうと不思議になってきます。

竹の子

2012/05/10

先日、園に大きな箱が届きました。開けてみると大きなたけのこがたくさん入っています。実は毎年この時期にたけのこが届くのです。

京都府の南部の山城は有名なたけのこの産地です。その山城に転居された卒園児の保護者が送ってくださるのです。卒園された子どもさんが今年高校入学なので、10年間毎年頂戴していることになります。いくら特産品でお家でもたくさんとれるからと言って、毎年送ってくださるというのは、大変なことだと思います。

たけのこが届くと、10年以上も前に当園に通ってくださっていたときの子どもさんの顔や、お迎えにいらしていたお父さんお母さんの顔がとても懐かしく思い出されます。そんな風にして心を運んでくださるというのは、大変ありがたいことです。

そう思うと、その当時十分な保育ができていたのか?とふりかえると同時に、今も充分に努力しているのかと考えてしまいます。頑張っている部分、まだまだの部分いろいろありますが、もっともっと保育の質を高めるために、力を尽くさなくてはという思いにさせられます。

いただいたたけのこは早速子どもたちがみんなで皮をむいたそうです。滅多に見ることのない大きなたけのこに興味津々の子どもたちは、手触りや皮をむいたときの香りを楽しんでいたようです。

多くの人に支えられて保育ができることに感謝し、様々な形で頂戴するお心に精一杯応える努力を重ねてゆくこと、忙しいという理由でいろいろなことをおろそかにせず、ひとつひとつ丁寧にとりくんでゆくことそのことの大切さを見直しなさいとアドバイスしていただいたのだと思います。ありがとうございます。

スーパームーン

2012/05/09

5月6日は満月でした。今回の満月はスーパームーンというそうです。月が地球を回る軌道は楕円軌道で、地球と月の距離は、最も近いところで約36.3万キロ、最も遠いところでは約40.6万キロだそうです。この楕円軌道を公転する月が地球に最も近づいたときの満月、もしくは新月をスーパームーンと呼ぶそうです。NASAによると、大きさで14%ほど大きく見え、明るさは30%ほど明るいそうです。YouTubのSCIENCE@NASAという動画で解説されています。実際には普段の満月と比べようがないので、大きいのかどうかはわかりにくいと思います。満月は6日の昼頃だったので、5日の夜に見てみようと思いましたが、季節外れの強い寒気が流れ込んだために、雨が降ったり曇ったりしていて月は見られませんでした。

5月の満月の日、お寺ではウエサク祭という法要が行われます。南方仏教の国々ではお釈迦様の生誕と成道と入滅を祝うウエサクのお祭りが5月の満月の日に行われていますし、チベットでも行われていると聞いています。
鞍馬のお寺では満月に聖水を捧げ、すべての平安と、一人ひとりの目ざめを参加者が共に祈る形で行われます。7時に第1部の法要が始まってしばらくすると、大きな月が昇ってきました。いつもより少し大きいようにも思いますが、そう変わらないようにも思えます。とても幻想的な雰囲気の中、参加者は真剣に祈りを捧げていらっしゃいました。

午後10時からはじまった第2部では、参加者が満月に向かって座し、静かに自分自身を見つめる瞑想が行われました。スリランカからいらした僧侶の方々が唱えてくださるお経の声に心が落ち着き、いつまでも心静かに坐っていたくなる時間でした。空高く昇った月は、とても明るく、冴え冴えと輝いています。この清らかな光に包まれて、皆の心に平安が訪れることを願わずにはいられませんでした。

未来の食卓

2012/05/08

食べること、食べるものを気にしていたら、「未来の食卓」というフランスの映画を見つけました。ドキュメンタリー映画で化学物質が健康に与える影響の大きさを訴えるところからはじまります。

私が衝撃的だと思ったのは、農作物を育てるために使われる農薬とその影響です。農薬を使う農家の人々への健康被害がとても大きいのです。近親者の多くががんを患ったり、農薬を散布したあとは、8日間排尿できないという人や3日間鼻血が止まらないと言う症状を訴えていた農家の方もいらっしゃいました。実際に神経障害にかかってしまい、集中することができなくなり考える事ができなくなり情緒も不安定になったという人の話しが、衝撃的でした。その人は、自分だけでなく息子さんも重い病気にかかったことを涙ながらに話していたシーンは見ていて辛いものがありました。
フランスの農薬、特に殺虫剤の使用量は世界でも2〜3番目に多いというデータが伝えられるシーンもあったので、フランスが特別なのかもしれませんが、ガンを初めとした様々な重い病気にかかる子どもが多いことを知りました。

みんな農薬をつかわないほうが良いことはわかってはいるのですが、生産量の減少などが心配でなかなかオーガニックに切り替えることができないようでした。
映画の中でもあったのですが、化学肥料や農薬を多用すると土が固くなって死んでしまい、雨が降っても水が浸透せず、表土を洗い流してしまい、すぐに痩せてしまうそうです。

バルジャックという村が学校給食で提供するメニューの全てを地元でとれるオーガニック食材にしてゆくという村の取り組みを中心として、地産地消を進め、子どもたちの意識を高めそれによって保護者の意識が高まり、住民が環境問題への意識を高めてゆく様子が描かれています。
子どもたちが授業の中で、地下水の汚染について学んでいるシーンもありました。オーガニック給食を出発点に環境問題を学んでいるのでした。また、菜園活動を通して、食や環境についても学んでいました。

バルジャック村の村長さんの発言を紹介しましょう。「費用がかかるというが健康は値段の問題ではない」「我々の村議会では会計を優先しない。先に費用の心配をするな。」「相談相手は自分の良心、それしかない。」

私たちが大切にすべきことは何なのでしょう。よくよく考えてみる必要があると思います。子どもたちには何の責任もありません。未来の食卓は、いや、今現在の食卓はどうあるべきなのでしょう・・・

食材のいのち

2012/05/07

何を食べますか?スーパーに行けば、様々な食材を手に入れることができます。食材だけではなく、加工食品や調理済みの食品も数多くあります。いつでも好きなときに、好きなものが食べられてとても便利です。

その便利な食品は何からできているのでしょう。食品の原材料名という欄にはいろいろなものが書かれています。その中には、名前を聞いたことがないカタカナ表記のものがあったりして、何だろうと思ってしまいます。食品添加物です。食品添加物は食品を作るために使われるもの、味や見た目を良くするもの、保存性を高めるものなど様々な種類があります。また、天然由来のもの、化学合成のもの様々です。必要だから使われているのだと思いますが、子どもたちにはできるだけ自然のままに近いものを食べさせてあげたいものです。また、野菜でも育てられるときに農薬や化学肥料ができるだけ使われていないものを選びたいと思います。

食べるということは、自分の命をつなぐために、他のいのちをいただくということです。私たちの命をつないでくれるいのち、その食材のいのちもできるだけ活かせることを考えたいと思っています。できるだけ食材の捨てる部分を少なくして使い切ること。できる限り素材の味を活かして調理すること。また食べる人が「自分の命をつないでくれてありがとう」と食材に感謝することもそうですし、できるだけ不自然なものを加えない自然のままの食材をつかうことも大切だと思います。できれば、野菜などは自給自足したいくらいです。

もちろん、全てをかなえることは難しいのが現状です。しかし、できるだけ自然に近い食材を使うようにしたい。みんながそう思っています。そんな願いを少しずつでも実現してゆきたいという、調理担当職員の熱意で、最近園で使うパンを変えました。知り合いのパン屋さんに頼んで、特別に自然な材料だけで作ってもらうことにしたのです。天然酵母を使って、じっくりと時間をかけて作ってくださるパンは、余分なものが入っていないのでとてもやさしい味です。

少しずつではありますが前進してゆきたいものです。

「すべてのいのちが輝く」を目指して。

「食」への興味

2012/05/06

食べるということは大切なことだというのは、みんなよくわかっています。では、何をどう食べるのか・・・

今は、お金さえ出せばいつでも好きな物を買って食べられるようになりました。食材を作ることはもちろん、調理をしなくても、深夜でも早朝でも、できあがったものを買うことができます。「あたためますか」と聞いてもくれます。

それだけ簡単に食べ物が手に入るようになると、食べ物のことをあまり気にかけなくなります。もちろんおいしいものを食べたいという欲求はあるとは思いますが、どうすれば野菜が育つか、この魚はどこからきてどのように調理されたのか、別に気にしなくても空腹は満たせます。調理をすれば、気にせざるを得ないことがそうしなくてすむのです。ついつい便利さにまけて、できあいのもので食事を済ませてしまいがちなのもよくわかります。しかし、こればかりになってしまったら、家で料理をする人がいなくなってしまいます。子どものままごとのモデルもいなくなるのです。何よりも身体にとってどうなのでしょうか。日本が誇る食文化はどうなってしまうのでしょうか。空腹を満たすこと、栄養補給だけが食事の意味ではないはずなのに、このままでは食に関する子どもたちの関心がどんどん薄れてしまいそうです。

私が小学生の頃は、土曜日が「半ドン」といって午前中だけで学校が終わり、家に帰ってお昼ごはんを食べていました。両親とも仕事をしていたので、私は土曜日の昼食はいつも弟と2人で、なにかしら作って食べていた様に思います。そんなときモデルにするのが親が作っていた料理です。どんな材料を使ってどれくらいの大きさに切って、どう調理すると良いのか、見よう見まねで覚えていたのだと思います。親が家で料理をしないと、子どもたちはそんなことも学べなくなってしまいます。

まずは、子どもたちのなかで、食べるということが、あたりまえのことではなく、興味関心を持って欲しいと思います。野菜がどうやって育つのか、どんなに手間暇をかけて育てるのか、肉や魚は・・・ どんな調理をすれば、どんな味になるのか、子どもたちの興味を引きそうな楽しいことは、たくさんあります。

食べること

2012/05/06

「食べる」ということはとても大切なことです。食べないと自分の命を繋いでゆくことができません。では、人間が食べるということは、生命活動を繋ぐための栄養補給だけすればよいのでしょうか。

人間は社会を作って生きています。そのことによって他の動物とは異なる進化をしてきました。家族は、複数の人が集まって生きる社会の最少単位です。それと同時に共に食べる、共食の単位でもあります。同じものを分かち合って食べることによって家族になり、共同体となったのではないでしょうか。

NHKスペシャル「ヒューマン なぜ人間になれたのか第3集 大地に種を蒔いたとき」を見ていて驚いたことがありました。狩猟採集生活から農耕定住生活へと移ってから、人間同士の争い、戦争が頻繁に起こるようになったというのです。狩猟採集生活では、獲物を追って移動することが基本だったので、それほどぶつかることはなかったのですが、農耕をして定住するようになると、農地を奪われることがそのまま死につながるので、農地は死守しなくてはならなかった。だから周辺の村との争いが起こったというのです。しかし、常に隣人と争い緊張関係にいるだけでは大変なので、緊張を緩和する方法がとられました。それは緊張対立関係にある異なる部族が共に儀式を行い、貴重な食べ物、ご馳走を分かち合うことだったのです。パプアニューギニアの山奥、マルケ村の人々は原始的な農耕による自給自足の穏やかな生活をしていますが、数年に一度隣のポカリ村の人たちと争うことがあるそうです。

しかし、ちょっとした争いがあったとき、結婚式などの祝い事があるとき、対立する隣村の人たちと貴重な豚を分け合ってみんなで食べます。「そうすると仲良くなれる。我々は仲間だという気持ちになれる。」というのです。儀式におけるご馳走が争いを避ける切り札だったと番組は結んでいました。もちろんそこには共に食べることが含まれているのです。人間が「食べる」ということの持つ、ただの栄養補給を超えた意味の深さと重要性が表れているのではないでしょうか。

その他にも、食べることには文化の伝承、心の交流など重要な意味を持っています。特に子どもたちが育つ過程で様々な人と食卓を囲み、食事を共にすることが大切なのです。

そこで、考えるのが、みんなで共に何を食べるかということです。

*この記事は5月5日分です。アップし忘れていて、気がついたら日が変わっていました。ごめんなさい。

お膳

2012/05/04

ひなまつりの時もそうしましたが、端午の節句の昼食も、3・4・5歳児たちは銘々にお膳を使っていただきました。いつも昼食は一汁二菜のことが多いのですが、この日は調理担当職員も頑張って一汁三菜にしてくれていました。それも結構手の込んだメニューです。和食を基本としながら、子どもたちの食べやすさも考慮したものになっていました。常時2人で調理をする体制になり、力を合わせてくれているのだと思います。

新入園児さんは少し慣れなくて、戸惑う子もありましたが、何度も経験している子は、姿勢良く正座して食べていました。

お膳の日は全園児が2階に集まり、一つの部屋でみんなで一緒に食べています。1・2歳児はテーブルとイスを使い、3・4・5歳児はお膳を使うので、その間に配膳台をおいていますが、お互いに見える距離にいます。1・2歳児が先に食べ始めているところに3・4・5歳児の準備が整って「いただきます」のお祈りをしていると、1・2歳児が3・4・5歳児の方をじっと見ていました。こういう中で、「いただきます」はあんな風にするんだな。と自然と学んでゆくのだと思いました。

みんな楽しそうに食べている中、4歳児のAちゃんは少し苦手な食材があったのか、なかなか箸が進みません。それを見ていた3歳児のBちゃんが「これ、おいしいよ」といって自分が食べて見せていました。異年齢の関わりというと、年上の子が年下のこの面倒を見るとか、促すとか、誘うというイメージを持ちがちですが、全てが年上から年下であったり、年齢がどうこうというのは大人の勝手な思い込みの部分もあるように感じました。そして、その3歳児Bちゃんをしっかりとサポートしている5歳児のCくんの姿もそこにはあったことも忘れてはならないと思います。

いろんな子が、様々に関わり合い、つながり合い、影響し合って発達してゆく。これが一番自然な姿なのだな。子どもたちを見ていて、あらためてそんなことを思いました。考えてみたら、4月2日生まれで1年ごとに区切られるのって、学校に通う間だけです。人生の他の長い期間は様々な年齢の様々な人と関わり合って生きてゆくのですし、学校制度という仕組みが導入されるまでは、または地域の子ども集団が機能していたときはいろいろな年齢の子どもたちが一緒に過ごしていたのです。

少子化に伴って、保育園や幼稚園くらいしか乳幼児が集団を体験する場所がなくなってきているのです。様々な子どもと関わることのできる唯一の場所、保育園や幼稚園がそのチャンスを奪ってしまったら、子どもたちはどこで、その経験をすることができるのでしょう。

何が一番大切なのか。もう一度よく見つめる必要がありそうです。

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